
第一段
高野山の大門についてお話しします。
大門な創建は不明です。
1141年から「英治元年」平安時代。1313年に後宇多天皇が参拝されたときには、すでに存在しておりました。記録に残っておりますのが、「天正5年」1640年木食応其上人によって再建された記録が残っております。
応其上人とは、「高野山の外交歓進活動を行なっておりました。
元々近江国を統治していた六角氏に奉公していた武将でしたが、1573年に、38歳で授戒を受けて僧侶の道を、歩まれた方です。
この大門は元々白木の状態で再建されておりました。創建当初は、現大門の手前の町石道を数メートル下った場所で九折谷「つづらおれだに」と呼ばれる場所に、前身なる鳥居⛩がありました。鳥居⛩から門に代わったのは、1230年頃
昔は、大門からさきは、女人禁制でした。
女人禁制について実際あった記録に残っているお話しをします。
大門から先は、女性は、中に入れませんでした。高野山の結界の要でした。
こんなお話しが残っております。
天皇がご参拝のおり天皇に同行した者の中に、男装してついてきたものがおりました。このものが大門を通って変えようとした時、今迄晴れていた空が俄に、暗くなり、黒雲が現れ太陽を遮り悪天候に、変わって行きました。お付きの ものがこの男装した女性を、大門から外に出すと、嘘のように、太陽がふたたび🌞さし始めました。
平安時代は、こんなでしたが、江戸時代になると大門から10メートルぐらい女性が入れるようになったようです。つづく
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